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1.

論文

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山本, 進
出版情報: 北九州市立大学国際論集.  pp.1-21,  2018-03.  北九州市立大学国際教育交流センター
URL: http://id.nii.ac.jp/1077/00000579/
概要: 朝鮮初期太宗と世宗は現物貨幣が使用されている市場に楮貨や銅銭を通用させようと努めたが結局失敗に帰した。15世紀末には楮貨は流通界から姿を消した。16世紀には2回にわたって楮貨通用政策が検討された。1515年の場合は楮貨による麤布の回収を企図 したものであったが、官民の反対によって失敗した。1551年の場合は小額取引における米穀の使用を阻止するためであったが、米穀を集積していた市廛民が猛反発したため挫折した。政府が楮貨の通行を推進したのは利権在上という経済思想の実現ではなく、商品と貨幣とを弁別し、使用価値を有する物貨を貨幣界から引き離し、現物経済を安定的に維持するためであったと考えるべきである。 続きを見る
2.

論文

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山本, 進
出版情報: 北九州市立大学外国語学部紀要 = Bulletin, Faculty of Foreign Studies, the University of Kitakyushu.  pp.1-25,  2010-11.  北九州市立大学外国語学部
URL: http://id.nii.ac.jp/1077/00000169/
概要: 貨幣経済の展開が遅れた朝鮮でも17世紀後期頃より商品経済が発展し、市場では常に貨幣が不足していた。だが政府は銭を商品市場に流れる血液とは見なさず、むしろ兵餉の一部と捉えていた。また軍営を中心とした銭流通が図られた平安道でも、17世紀末には銭 の追加投入が中止されたため、富戸による江辺―内地間の穀物価格差と還穀制度を悪用した利鞘稼ぎが横行した。英祖初期に貨幣廃止が企図され、鴨緑江辺に流通していた銭を強制的に回収して平安道の監営・兵営に備蓄させると、この弊害は更に悪化した。一方漢城の銭荒が深刻の度合いを増すと、廷臣らは平安道軍営の備蓄銭を流用せよと唱え出した。しかし平安道の銅銭は彼らが考えるほど充溢しておらず、やがて英祖も銅銭鋳造を余儀なくされるが、南送された銭も漢城の市場経済を潤したとは言い切れず、高級官僚や王族層の高利貸しに転用された可能性が否定できない。結局銭貴の弊害は漢城朝廷→平安道軍営→江辺という形で周縁部に転嫁されたのである。 続きを見る