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1.
論文 |
山本, 進
概要:
朝鮮初期太宗と世宗は現物貨幣が使用されている市場に楮貨や銅銭を通用させようと努めたが結局失敗に帰した。15世紀末には楮貨は流通界から姿を消した。16世紀には2回にわたって楮貨通用政策が検討された。1515年の場合は楮貨による麤布の回収を企図
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したものであったが、官民の反対によって失敗した。1551年の場合は小額取引における米穀の使用を阻止するためであったが、米穀を集積していた市廛民が猛反発したため挫折した。政府が楮貨の通行を推進したのは利権在上という経済思想の実現ではなく、商品と貨幣とを弁別し、使用価値を有する物貨を貨幣界から引き離し、現物経済を安定的に維持するためであったと考えるべきである。
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2.
論文 |
山本, 進
概要:
貨幣経済の展開が遅れた朝鮮でも17世紀後期頃より商品経済が発展し、市場では常に貨幣が不足していた。だが政府は銭を商品市場に流れる血液とは見なさず、むしろ兵餉の一部と捉えていた。また軍営を中心とした銭流通が図られた平安道でも、17世紀末には銭
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の追加投入が中止されたため、富戸による江辺―内地間の穀物価格差と還穀制度を悪用した利鞘稼ぎが横行した。英祖初期に貨幣廃止が企図され、鴨緑江辺に流通していた銭を強制的に回収して平安道の監営・兵営に備蓄させると、この弊害は更に悪化した。一方漢城の銭荒が深刻の度合いを増すと、廷臣らは平安道軍営の備蓄銭を流用せよと唱え出した。しかし平安道の銅銭は彼らが考えるほど充溢しておらず、やがて英祖も銅銭鋳造を余儀なくされるが、南送された銭も漢城の市場経済を潤したとは言い切れず、高級官僚や王族層の高利貸しに転用された可能性が否定できない。結局銭貴の弊害は漢城朝廷→平安道軍営→江辺という形で周縁部に転嫁されたのである。
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3.
論文 |
山本, 進
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4.
論文 |
山本, 進
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5.
論文 |
山本, 進
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6.
論文 |
山本, 進
概要:
常平通宝は朝鮮王朝が本格的に鋳造した唯一の銅銭であり、その規格は粛宗4年の単字銭が重量1銭2分であったと言われているのに対し、5年以降の二字銭は重量2銭5分程度に倍増した。しかし鋳造技術の低さから重量のばらつきが生じ、また当初から官庁による
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悪鋳や民間での盗鋳が横行して銭の軽薄化・粗悪化を招来したため、約20年で鋳銭は停止された。英祖初期より間歇的に提起された大銭鋳造論の背景には、巷間にて蔓延する雑多な銅銭を大銭と小銭に整理して銭制の紊乱を終息させる意図があったが、これらは大別して十進法大銭鋳造論と当二銭鋳造論とに分類される。
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7.
論文 |
山本, 進
概要:
朝鮮人は中国人や日本人と較べて銀貨に関する知識が乏しく、品位に応じて天地玄黄法と成数表示法という二種類の分類法が並行して用いられた他、その由来に応じて丁銀(日本銀)・礦銀(国産銀)・馬蹄銀(中国銀)などの呼称が独立して存在した。そしてこれら
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の間の相互関係は極めて不明瞭であり、例えば品位80%の人蔘代往古銀が七成とみなされ、時に黄銀と称されるなど、誤認識が多かった。
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8.
論文 |
山本, 進
概要:
日朝貿易は原則として求償貿易(バーター・システム)であったが、実際には当初より被執という延べ取引や手標という手形での決済が行われてた。被執には従来より知られていた、対馬人が銀を前渡しして数箇月後に唐貨や人蔘を受け取る日本側被執ばかりでなく、
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朝鮮商人が各衙門・軍門の備蓄銀を借り受け使行貿易を通して唐貨を貿来し、これを倭館に持ち込んで数箇月後に銀を受け取る朝鮮側被執も存在した。
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