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1.
論文 |
山本, 進
概要:
朝鮮初期太宗と世宗は現物貨幣が使用されている市場に楮貨や銅銭を通用させようと努めたが結局失敗に帰した。15世紀末には楮貨は流通界から姿を消した。16世紀には2回にわたって楮貨通用政策が検討された。1515年の場合は楮貨による麤布の回収を企図
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したものであったが、官民の反対によって失敗した。1551年の場合は小額取引における米穀の使用を阻止するためであったが、米穀を集積していた市廛民が猛反発したため挫折した。政府が楮貨の通行を推進したのは利権在上という経済思想の実現ではなく、商品と貨幣とを弁別し、使用価値を有する物貨を貨幣界から引き離し、現物経済を安定的に維持するためであったと考えるべきである。
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2.
論文 |
山本, 進
概要:
朝鮮の倭銅鑞輸入は世宗の鋳砲・鋳銭政策に伴う青銅需要に刺激されて増大し、需要が低下した後も日本の朝鮮産綿布需要に押されて輸入圧力は続いた。政府は羈縻政策の観点から倭銅輸入を継続し、余剰銅は鍮器などに加工された。16世紀になると一転して倭銅鑞
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輸入は低下した。
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3.
論文 |
山本, 進
概要:
清代中期までに後発的地域経済圏を形成する原動力となった直隷・山東の移入代替棉業は、宣統年間を境に大きく変貌した。洋布の流入により最周縁地域への土布移出は減退し、直隷棉業は東三省市場をほぼ失った。土布に代わって主力商品となったのは、海外市場向
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けや上海・天津・青島など国内紡績工場向けの棉花であった。1910年を境に棉花移出は飛躍的に上昇し、棉産地も西河棉区から御河棉区、更には東北河棉区へと拡大した。清代の棉業が江南棉布の移入代替生産であったのに対し、民国期棉業は強い移出指向性を帯びていた。
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4.
論文 |
山本, 進
概要:
清初より民国9年に至るまで、中国本土と内外モンゴルとの交易は持続的に発達した。ロシア革命と外モンゴルの独立により庫倫方面の市場は喪失したものの、東部内モンゴルでは磚茶や棉布を移入し、牲畜や羊毛などの畜産品を移出する草地買売が継続した。これを
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末端で担ったのが撥子である。奥地での撥子交易は基本的に物々交換であり、銀貨は貴金属商品として内地から一方的に移入されるに止まり、貨幣としての役割を果たすことができなかった。集荷地では銅銭を基礎とした吊文や奉天票・熱河票などの紙幣も使用されたが、貨幣による売買は少なく、撥子と雑貨商や桟店との間の債権・債務を定期的に相殺する標期決済が主流を占めていた。また、雑貨商が商品を移入する時、あるいは桟店が畜産品を移出する時に振り出す為替も、銭舗が票期を定めて定期的に決済していた。
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5.
論文 |
山本, 進
概要:
華北西部の山西・陝西・甘粛三省では、灌漑が困難なことから、清末まで棉業がほとんど成長しなかった。ただ、山西省の汾水流域や陝西省の渭水盆地では、水利の便が比較的よい場所に僅かながら自給的棉業が根付いていた。19世紀後半、罌粟栽培が浸透したこと
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により、当地の脆弱な在来棉業は一旦解体された。しかし民国以降、両地域では省政府の罌粟栽培禁止政策と殖産興業政策によりアメリカ棉やインド棉などの外来種を用いた近代棉業が興った。19世紀から20世紀前半期にかけて、華北西部の商品生産は自給的棉業からアヘン生産、更には移出向け棉花生産へと劇的に変化した。
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6.
論文 |
山本, 進
概要:
貨幣経済の展開が遅れた朝鮮でも17世紀後期頃より商品経済が発展し、市場では常に貨幣が不足していた。だが政府は銭を商品市場に流れる血液とは見なさず、むしろ兵餉の一部と捉えていた。また軍営を中心とした銭流通が図られた平安道でも、17世紀末には銭
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の追加投入が中止されたため、富戸による江辺―内地間の穀物価格差と還穀制度を悪用した利鞘稼ぎが横行した。英祖初期に貨幣廃止が企図され、鴨緑江辺に流通していた銭を強制的に回収して平安道の監営・兵営に備蓄させると、この弊害は更に悪化した。一方漢城の銭荒が深刻の度合いを増すと、廷臣らは平安道軍営の備蓄銭を流用せよと唱え出した。しかし平安道の銅銭は彼らが考えるほど充溢しておらず、やがて英祖も銅銭鋳造を余儀なくされるが、南送された銭も漢城の市場経済を潤したとは言い切れず、高級官僚や王族層の高利貸しに転用された可能性が否定できない。結局銭貴の弊害は漢城朝廷→平安道軍営→江辺という形で周縁部に転嫁されたのである。
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7.
論文 |
山本, 進
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8.
論文 |
山本, 進
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9.
論文 |
山本, 進
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10.
論文 |
山本, 進
概要:
常平通宝は朝鮮王朝が本格的に鋳造した唯一の銅銭であり、その規格は粛宗4年の単字銭が重量1銭2分であったと言われているのに対し、5年以降の二字銭は重量2銭5分程度に倍増した。しかし鋳造技術の低さから重量のばらつきが生じ、また当初から官庁による
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悪鋳や民間での盗鋳が横行して銭の軽薄化・粗悪化を招来したため、約20年で鋳銭は停止された。英祖初期より間歇的に提起された大銭鋳造論の背景には、巷間にて蔓延する雑多な銅銭を大銭と小銭に整理して銭制の紊乱を終息させる意図があったが、これらは大別して十進法大銭鋳造論と当二銭鋳造論とに分類される。
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11.
論文 |
山本, 進
概要:
朝鮮人は中国人や日本人と較べて銀貨に関する知識が乏しく、品位に応じて天地玄黄法と成数表示法という二種類の分類法が並行して用いられた他、その由来に応じて丁銀(日本銀)・礦銀(国産銀)・馬蹄銀(中国銀)などの呼称が独立して存在した。そしてこれら
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の間の相互関係は極めて不明瞭であり、例えば品位80%の人蔘代往古銀が七成とみなされ、時に黄銀と称されるなど、誤認識が多かった。
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12.
論文 |
山本, 進
概要:
日朝貿易は原則として求償貿易(バーター・システム)であったが、実際には当初より被執という延べ取引や手標という手形での決済が行われてた。被執には従来より知られていた、対馬人が銀を前渡しして数箇月後に唐貨や人蔘を受け取る日本側被執ばかりでなく、
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朝鮮商人が各衙門・軍門の備蓄銀を借り受け使行貿易を通して唐貨を貿来し、これを倭館に持ち込んで数箇月後に銀を受け取る朝鮮側被執も存在した。
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13.
論文 |
山本, 進
概要:
朝鮮は開国当初女真族と貿易を行わなかった。鉄が輸出されると彼らの軍事力が増大するからである。だが1470年代頃から明や朝鮮の支配層の間で貂皮が流行すると、貂皮と鉄物との密貿易が活発になった。
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14.
論文 |
山本, 進
概要:
明と朝鮮は鴨緑江を国境と定めていたが、中洲の帰属については未確定であった。世祖は中洲三島の開墾を推進し、成宗期には4回にわたり起耕論が提起されたが挫折した。中宗26年より中洲に定住して起耕を始めた。そこで朝鮮政府は遼東都司に彼らの刷還を要求
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した。
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15.
論文 |
山本, 進
概要:
中国との事大外交を行うため、朝鮮政府は文書応奉司を設置して吏文という中国の公文書用語を学ばせた。しかし朝鮮の両班は半ば口語体である吏文学習を厭い、16世紀半ばには殆ど重視されなくなった。
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16.
論文 |
山本, 進
概要:
明初遼東に対する兵站は本土から直接海運されていた。やがて開中法の利用と併せて折糧銀が毎年10万両送付されるようになった。しかし遼東の開墾が進展すると折糧銀は減額され、不定期になった。
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17.
論文 |
山本, 進
概要:
朝鮮前期鴨緑江と豆満江の江辺に建設が試みられた長城は、明の遼東辺墻構築を契機とし、辺民の逃亡阻止を名分としつつ、実際には対女真防衛を目的としていた。ところが朝廷では何が最重要課題であり、如何なる方法で対処するのかを明確にしないまま、漫然と議
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論が続けられ、結果として修築事業はほとんど進まなかった。
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18.
論文 |
山本, 進
概要:
明初洪武年間、遼東へは貨幣がほとんど送られず、穀物や木綿などの現物が直接転運され、軍土に支給されていた。だが時代が下るにつれ、徐々に現物に替わって鈔が転運されるようになり、正統年間には山東や遼東で鈔の通用が最も盛んになった。ところが土木の変
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を境に銀の遼東転運が急増し、景泰・天順年間は鈔払いと銀払いとの併用期となった。その後も銀遣いの勢いは止まず、成化年間には鈔が貨幣の地位から脱落して銀の優位が強まった。弘治年間になると遼東軍土への鈔の給賞はほとんど見られなくなった。
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